背景
国連ユニタールイラク奨学プログラムは、イラクの社会経済の安定に貢献する地域に根ざしたビジネスの発展と強化のために、若手起業家の育成とリーダーシップスキルの向上を図る研修プログラムです。本研修の目的は、ハードスキル(理論・手法・ツールなど)とソフトスキル(自己および対人関係に関するスキル)の両方を強化することです。ハードスキルとしては、事業立ち上げや実施に必要な計画立案、ビジネス/収益戦略、ニーズアセスメント、営業・マーケティング戦略、モニタリング評価の手法などについて学びます。ソフトスキルとしては、事業運営に必要なチームワーク戦略、コミュニケーションやプレゼン、リーダーシップ、課題の特定と解決に必要なスキルなどを学んでいきます。
本プログラムは2016年度に開始し、毎年約6か月間に海外で2回、イラクで2回ワークショップを行い、起業に必要なスキル、プロジェクト運営やリーダーシップスキルを学び、若手起業家の育成を図ります。研修生は各ワークショップで課題を与えられ、次のワークショップまでに課題を仕上げ、メンターやイラク在住のコーチのアドバイスを受けながら、最終的には個人の事業計画書を作成します。2017年度から、優秀な研修卒業生はコーチとして次年度の研修にボランティアで参加できる制度を設け、研修生をサポートしています。
本プログラムは開始以来、日本政府および日本国民から支援を受けており、環境、経済の発展を促進し、イラクおよび地域全体の持続可能な開発目標(SDGs)の達成に貢献しています。国連ユニタールは、若者の能力を高め、人々や社会全体にポジティブな変化をもたらす献身的な支援に心から感謝しています。
2016年度から2019年度までに86名が本プログラムに参加し、そのうち37名(46%)が女性でした。研修卒業生へのアンケート調査によると、75%が研修で新しい情報を得ることができた、96%が学んだ情報を各自の職場で活用する予定、98%が研修内容が有意義であった、80%が総合的に研修に満足したと回答しています。
下記の3名の卒業生による体験談では、研修で学んだ知識やスキルがどの程度、活用され、どのような課題に直面したかなどについて語られています。なお、本稿は2016年度から2019年度の間に本プログラムに参加した卒業生へのアンケート調査(回答率24%、すべての質問に回答した人14%)とその後のインタビューに基づいた内容となっています。
研修で学んだ知識・スキルの活用および作成した事業計画書の実施
卒業生のほとんどが、本研修に参加する以前から起業に関わる活動に携わっており、リーダーシップの知識もある程度持っていました。76%の卒業生が過去にリーダーシップ、起業家育成やプロジェクト・事業運営に関する研修を受講した経験がありました。卒業生は起業家として民間セクターで活動したり、NGOでプロジェクトを実施したり、政府機関や大学で勤務していました。回答者の83%が、研修で学んだスキルは仕事をしていくうえで重要であると回答しました。そして、100%が、研修で学んだ知識やスキルを実践に活かしたいと答えました。これは通常の国連ユニタールの研修の80~82%を超えており、選考プロセスの妥当性および研修生の努力を示しています。
ハードスキルより、ソフトスキルを実践に移したケースが多かったことが調査結果からわかりました(図1参照)。ソフトスキルの中でも特にコミュニケーションとプレゼンスキル、リーダーシップスキルとチームワーク戦略の3つが、最も活用されたスキルでした。反対に、営業やマーケティング、ピッチ用の資料作成(企業戦略プレゼン)スキルの使用頻度が最も低いという結果になりました。
ードスキルを実践に移した卒業生の数が少なかったのは、知識獲得率が低かったためだけではなく、職場環境や条件が整っていなかったためとも考えられます。学んだ知識を職場で実践することができなかった要因としては、上司の理解を得ることが難しい、資金不足、機会不足など組織上の要因があげられています(図2参照)。マーケティング戦略などの技術的なスキルを実践するためには、このような条件が整うことが必須です。しかし、ソフトスキルの知識移転には大きな資金よりも個人の自信が重要となります。また、ほとんどの卒業生が起業家としての経験が浅いため、学んだ知識を実践するのが難しかったとも言えます。
また、学んだ知識とスキルを実践に移すことができた卒業生の率が高いことは、研修の課題として各自が取り組んだ事業計画書の作成と関連性があるという結果がでています。回答者のほとんどが、作成した事業計画書を実施した、または実施する準備を進めていると回答しました。事業計画書を実施していない卒業生は、開業資金不足、投資家とのネットワーク不足、イラクの治安問題や事業を実施する知識不足などを主な問題点としてあげています。
本プログラムのもう一つの原動力は、コーチング体験です。優秀な卒業生の中から選ばれた数名は次年度の研修にコーチとして参加し、新しい研修生をサポートしていきます。コーチング体験は、研修で学んだ知識を確実に自分のものにし、更に新しい知識を獲得し、イラク国内の起業家ネットワーク拡大にもつながります。
「コーチング体験は学習プロセスに新たな視点をもたらしてくれました。イラク国内の起業家や起業の準備をしている人たちとのネットワークができました。」
「起業についての新しい知識を得ることができました。新しいアイディアやプロジェクトが浮かんできました。」
「企業に研修を実施する仕事をしていたので、コーチになることで新たな学びがありました。」
「コーチの体験を通して自分自身が学ぶことがたくさんありました。オンライン上でのコーチングや、実践に移す前に十分に練習することができなかったことは難しかった点です。」
アクラム カディール ラシド
アクラム カディール ラシド
Akram Qadir Rashid
Paragon創立者・Haw Organization協力者
若者のリーダーシップ育成支援
2018年度卒業生-スライマーニーヤ、クルディスタン地域出身
アクラムは大学で医学を学びましたが、人道支援、リーダシップスキル・起業家育成の分野で約8年間仕事をしてきました。学ぶことにとても意欲的で、特に若者への知識移転や人材育成に興味があります。アクラムは現在、イラクのクルディスタン地域で若者の人材育成を支援するHaw organizationでボランティアとして働いています。プロジェクトの共同リーダーとして、若者を対象とした研修を実施する傍ら、国連ユニタールの研修で作成した事業計画書を実行に移す準備を進めています。
国連ユニタールの研修参加時は、クルディスタン地域で緊急支援、起業家育成、マイクロファイナンス、若者や女性支援などを行うNGOで働いていました。起業家育成やリーダーシップについて、もっと勉強し、新しい情報を得たいという思いから研修に応募しました。コーチとして次年度の研修にも参加できる可能性があるということもアクラムにとってとても魅力的でした。
たくさんの優秀な研修生と一緒に学ぶことができたのはとても貴重な経験だった、とアクラムは話します。6か月間の研修終了後は、学んだ知識を他の人と共有するために、友人と共に若者のリーダーシップと教育を強化するボランティア団体「パラゴン」を立ち上げました。2019年から対面、またはオンライン上で無料の研修を提供しています。事業開発、起業家育成、リーダーシップや人前で話すスキルなど国連ユニタールの研修で学んだ知識をフル活用しています。団体を立ち上げてから148名の若者に訓練を実施し、今後は他の団体と連携を強化していきたいと考えています。その一つが「Hawアカデミープロジェクト」です。Haw organizationと共同で、リーダーシップ育成と職業訓練コースを実施する予定です。
アクラムは教える、ということに情熱を注いでいます。パラゴンとHaw organization以外でも、機会がある度に研修で学んだ知識を共有しています。先日も、クルディスタンの郷土料理を事業として展開したいという友人のために、事業戦略やクライアント獲得方法などについてアドバイスしました。
国連ユニタールの研修で学んだことで、自信がついたとアクラムは話します。研修に参加する前は、やる気はあるものの、新しいことを始める自信がありませんでした。今では自信を持って仕事を進めることができ、事業を立ち上げる準備も着々と進んでいます。
国連ユニタールの研修で作成したアクラムの事業計画書は、不動産会社と関連する行政機関をつなぐデジタル・プラットフォームを構築することです。不動産業界で働く兄を手伝っているときに、よく誤解が発生していることに気が付き、デジタル・プラットフォームを構築することで透明性を高め、正確な情報を伝達することができると考えたのです。アクラムは不動産業界で経験を積み、ネットワークを広げるために、政府機関で不動産を扱う部署の弁護士のアシスタントとして働き始めました。しかしながら、最大の課題は開業資金を集めることでした。投資家に働きかける活動を2年間地道に行い、そして、ついに今年、アクラムのアイディアを実現化してくれる投資家が現れたのです。
アクラムは国連ユニタールの研修の体験を非常に前向きにとらえていて、学んだ知識を積極的に知識移転しています。今後の研修では異なる地域在住のコーチを増やし、研修中に作成した事業計画の実施をサポートするスタッフの配置を提案しています。
アリーブ モハメッド
Areeb Mohamed
eSITE Information Technology創立者兼社長
清潔な水へのアクセスとビジネス・ソリューションのためのリーダーシップ・起業家スキルの向上
2017年度卒業生-バグダッド出身
アリーブはIT分野の起業家であり、ソフトウエア開発とITサービスに特化した民間企業eSITEインフォメーション・テクノロジーの共同創立者です。事業拡大のために起業家として必要な知識やリーダーシップスキルを取得したいと考え、国連ユニタールの研修に応募しました。研修終了後は、起業家としての知識や自社の経営に自信を持てるようになり、イラク国内の起業家とのネットワークを深めることができました。
アリーブの顧客の多くは若き起業家たちです。そのため、アリーブの会社ではITサービスだけでなく、ビジネス・ソリューションについてもアドバイスを行っています。事業の最終的な目的は、人々の役に立つプロジェクトを実施していくことだとアリーブは考えます。リーダーシップおよび起業家スキルについての知識を学び、事業の準備を整えることは自社のサービス向上だけでなく、顧客の事業の質の向上にもつながります。国連ユニタールの研修で学んだプロジェクト計画立案やプロジェクトマネジメント、プレゼンやコミュニケーションスキルのおかげで業績向上にもつながりました。
実際にアリーブは、研修で学んだビジネスモデルキャンバス(BMC)やプロジェクト計画スキルを実践しています。これらのフレームワークは、事業のインプットとアウトプットや関係者を整理するのに役立っています。自分自身の頭の中を整理するだけでなく、投資家や外部関係者に事業目的や顧客層などの説明をする際にも、わかりやすくまとめられるようになりました。
アリーブは国連ユニタールの研修で学んだ知識やスキルを会社の同僚と共有し、わかりやすく的を得た説得力のあるプレゼンができるようアドバイスしています。また、企画書の質の向上にも貢献しています。その結果、国際移住機関(IOM)の助成金を獲得し、研修中に作成した「ヤミー・フード・デリバリー」事業計画の実施にこぎつけました。プロジェクト計画立案とプレゼンスキルが助成金獲得に役に立ったのです。
「ヤミー・フード・デリバリー」は、スマートフォンアプリを使って食料品や水を配達するサービスです。アリーブは配達サービスの需要の増加を認識していましたが、商品納入業者の数が足りていなかったり、配達地域が限られていたり、配達の遅延や注文ミスが発生するなど多くの問題点がありました。スマートフォンアプリ一つですべてのサービスが完了すれば、従来の注文方法の簡素化を図ることができます。アリーブの事業は、従来の配達サービスの様々な問題点をカバーするだけでなく、清潔な水を市民に届けることも目的としています。今まで、清潔な飲料水を家庭に直接届けるという民間のサービスはありませんでした。イラクでは、飲用に適した安全な水の確保は大きな課題となっており、多くの人はペットボトルの精製水を購入しています。しかし、車を持っていない人たちは重い飲料水を運ぶのにとても苦労します。アリーブの事業は一般市民の役に立つサービスなのです。
現在、新型コロナウイルス感染症対策として、飲食店の衛生措置としてレストランなどの食品供給者への制限が課せられているため、事業を開始することができません。しかし、アリーブは近い将来、食べ物や安全な飲料水を家庭に届けるなど、人々のニーズに合ったサービスを提供し、事業拡大を図っていくことができると信じています。また、今後も国連ユニタールの研修が継続し、イラク国内の若きリーダーや起業家を支援する追加のワークショップが実施されることを願っています。
バスマ ハイサム
Basma Haitham
Un Ponte Per (UPP-架け橋) コミュニケーション・オフィサー
コミュニティの課題解決のためのコミュニケーションスキル向上と人脈作り
2018年度卒業生-バグダッド出身
2018年度卒業生-バグダッド出身
コミュニケーション、マーケティングや広告の分野で数年間働いてきたバスマは、コミュニティのニーズに応え、社会問題に取り組む社会起業家に長年興味を持っていました。現在Un Ponte Per(UPP-架け橋)という、情報キャンペーン、文化交流、国際協力プロジェクトや平和構築プログラムなどを通じて中東の武力紛争を停止することを目的としたNGOでコミュニケーション・オフィサーとして働いています。これからもイラクの社会問題を解決する取り組みに重点を置いて仕事をしていきたいと考えています。
国連ユニタールの研修に参加したときは、広告会社で勤務する傍ら、大学で英文学の勉強に励んでいました。バスマは起業家についてもっと勉強したいと思っていたので、研修はちょうどよい機会でした。スモールビジネス(小規模企業)やベンチャー企業が社会に変化をもたらし、我々に直接刺激を与えてくれることは素晴らしいことです、とバスマは言います。まだ起業家として活動していませんが、現在勤務するUPPではコミュニティに貢献する活動を行っています。コミュニケーション・オフィサーとして水の保全に向けた啓発活動を促進し、アリーブとは違った形で安全な飲料水を確保する取り組みに貢献しています。
バスマの仕事は、SNSやメディアを通じたUPPの活動のプロモーション、パートナー団体との調整や財源確保のためのドナーとの連携などがあります。国連ユニタールの研修で学んだリーダーシップスキルが、日々、現職のコミュニケーション・オフィサーとしてのパートナー団体、ドナーや受益者との調整にとても役に立っています。時にはプロジェクトの実施やモニタリングに携わることもあり、研修で学んだ知識を同僚と共有し、知識移転を行っています。研修に参加したことで自信がつき、新しいスタッフが入ったときには率先して他のスタッフに紹介するなど、早くスタッフが仕事になじめるように助けています。
バスマは2020年度の国連ユニタールイラク奨学生プログラムのコーチに選ばれました。学んだ知識を新年度の研修生に知識移転するというのはとても貴重な体験だった、とバスマは熱く語ります。コーチとして研修に参加する前に、コーチング手法の研修も受けるなど、コーチング体験がリーダーシップスキルをより一層向上させました。
国連ユニタールの研修で得た重要な学びの一つはネットワーキング、つまり人脈作りでした。起業家として経験豊富な他の研修生やコーチとの交流によって、ネットワークを拡大することができました。また、研修とは別にバグダッドで実施された国連ユニタールの同窓会でも、同じような興味を持った卒業生と出会い、その後も定期的に連絡を取り合っています。
バスマは将来イラク北部に住む難民女性のエンパワーメントに貢献したいと考えています。国連ユニタールの研修で学んだ知識とスキルやUPPでの経験を活用し、手工芸品関連の事業を立ち上げたいと考えています。なお、2020年度にコーチとしてオンライン研修に参加した際に、オンラインでは、研修生の学習プロセスへのエンゲージメントに違いがあることをバスマは感じました。新型コロナウイルス感染症が収束した後は、以前のように対面でワークショップが再開されることを願っています。
結論
卒業生の体験談から、国連ユニタールの研修で学んだ知識やスキルを現職で活用している姿が見て取れます。アンケート調査では、ハードスキルよりソフトスキルの方が応用しやすかったという結果が出ています。複数の卒業生がハードスキルは職場での仕事の質を高めたと回答しています。ハードスキルが実用的でなかったというわけではなく、実践するための環境を整えるのが難しかったのだといえます。
研修中に課題として与えられた事業計画書を作成するにあたり、コーチやメンターの支えが大きかったと卒業生は回答しています。しかしながら、研修後に事業計画書を実践に移すには、開業資金の獲得の難しさや投資家とのネットワーク不足などの課題に直面しました。特に経験の浅い卒業生にとっては実践に移すことが難しかったようです。複数の卒業生が、研修後も国連ユニタールの研修担当者のフォローアップが必要であると回答しています。また、事業計画書を実践に移すことが難しくても、事業計画書作成自体が貴重な学びの場になったとも回答しています。また、アクラムのように熱心かつ忍耐強く事業の準備を進め、起業にいたった卒業生もいます。
多くの卒業生が、研修に参加したことによってネットワークが拡大したことに言及しています。同じ志を持った仲間や経験豊富な先輩との意見交換を通して、より実務的な知識を得ることができたということです。次年度のコーチとして選ばれた卒業生は、コーチング手法という新たな知識を取得する機会も得ることができました。多くの卒業生がプログラムの構成、内容やコーチのサポートなど総合的な観点から、研修に満足したという結果になりました。